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性格分析

ウィルヘルム・ライヒの1933年の代表的著作である「性格分析」についての要約と解説。本書で性格の鎧、抵抗分析、ふるまい分析といった現代の精神分析技法に通じる重要概念について論じられている。

ウィルヘルム・ライヒの写真

図1 ヴィルヘルム・ライヒの写真

1.性格分析(1933)の要約

(1)序論的考察

治療方法の理論概念による方向づけ

  1. 局所的見地(無意識の意識化)
  2. 力動的見地(抵抗分析を通して実施)
  3. 経済的見地(個性的秩序に従う抵抗分析の遂行)

局所的見地が唯一の精神分析の仕事とされていた時代とは異なり、力動的見地を重視するなら無意識の内容と同じように、抵抗の感情を操作の手引きにしなければならない。

(2)性格の鎧と性格抵抗

a.基本規則に従うことの不可能

患者は率直に何でも精神分析家に話すようにはならない。人格に加えられた二次的な歪みが精神分析治療上の困難を生み出す。しかし「順応への教育」ではなく、患者の現実のふるまいとその意味に観察の焦点を合わせて「精神分析的な解釈投与」をしなければならない。

これは<性格>の精神分析に到達させる(Ex.強迫的性格、ヒステリー的性格等)。性格ごとに相違する各々に定型的な反応形態は、症状や空想の内容と同じように、幼児期体験によって決定される。

b.性格抵抗はどこからくるか

どの症状から出発しても究極的には性格論的反応基礎に達する。この性格傾向全体は治療努力に対して<堅固な防衛機制>として働く。この<性格の鎧>は外部刺激と同時に内部的なリビドー衝動に対して防衛として働く。

リビドー的または破壊的エネルギーが神経症的態度(反動形成、代償作用等)によって消費され不安は解消されるゆえ、この鎧は形成・維持される。精神分析操作はこの<神経症的平衡>を脅かすので、<自己愛的防衛機制>から防衛が生じる。

c.性格抵抗を精神分析する技法

表現内容よりその形式、<態度>が特に注目に値する。Ex.話し方、挨拶の仕方、みつめる態度、寝椅子での様子、声の抑揚、慣習的礼儀正しさの度合い等。

Ex.早漏に悩む男性 一人は<受身的女性的性格>。もう一人は<男根期的攻撃的性格>。二人の症状の基礎を「女性の膣の中での父のペニスに対する恐怖」とすると、二人は去勢不安から精神分析家に対して、陰性-父-感情転移を生じ、精神分析家を憎む。前者はますます頑固に受身的服従的な友好な態度をとり、後者は無礼で威嚇的な態度をとる。

精神分析状況で生起する性格抵抗は性格形成を決定づけた幼児期の諸状況の性格な複写である。性格分析と一般の抵抗分析の間には、本質的な相違がある。

性格抵抗では、「すべての精神分析材料全体の中から、絶えず性格抵抗をとりあげる」こと、未解決な性格抵抗がある場合には深層解釈は行わない。(解釈投与の論理的な順序の確立)。そして性格と症状との表面的な連関を示し、自分の性格傾向に繰り返し対決させる。

初めの内は、抵抗とその意味を扱う他なにもしないとしても、それに対応する幼児期の材料は次第に出現してくるが、初期にあっては性格分析が優位を占め、後期に内容と幼児期体験の精神分析に重点が移動する。

d.性格抵抗の構造から状況技法を導き出す操作(防衛に対する解釈技法)

防衛と<鎧>の機制に対する組織的かつ論理的な解釈。

<症例-30歳の男>

主訴は生活から何の楽しみも得られないということ。後になり性的能力が全く不完全であることがわかった。病識はない。ふるまいを見ると、厳しく抑制され、低い声でためらいがち。同時に当惑を抑制し、元気そうに見せかける。にもかかわらず強い劣等感を抱いている。

若い頃の話では、家中が兄をちやほやした。彼の話す調子・トーンから兄の不親切で冷たい横柄な振る舞いに対する彼の悲しみが感じられた。しばらく沈黙が続き、夢が話される。精神分析を受けることの疑惑、兄への敵意、兄と精神分析家との結びつきを感じていることを告げるが、抵抗を深い水準で解釈しすぎる過ちを私は犯してしまう。

ゆえに抵抗の意味についてふるまいを通して理解できるまで待つことにした。その後治療に対して自分を防衛しようと彼の存在全体が治療との本心からの交流を遮断するために用いられていることを指摘し続けた。彼は同意する。しかし精神分析治療は決まって「私は何も感じません。精神分析は私に何の影響も与えません。何も浮かんできません。」という言葉で始まるのが常となる。

私は先の解釈を固守し待つ。やがて彼は男性に対して防衛的な態度をとっていることを話し、友人との関係で女性の役割を演じてきたことを語った。しかし防衛は強化される。・・・・・患者に彼の態度を組織的に示し、それが防衛の表現であると解釈し、待った。・・・・・・・やがて私は、私に対する彼の劣等感を解釈。

数日後私だけでなく劣等感を抱かせるすべての男性への羨望についての連想がなされた。彼はどんな人物の優越も我慢できず、それを打ち崩そうとしていた。抑制された攻撃性が現れる。さらにその後女性的態度が増強した。・・・私は彼に現在の女性的性質は攻撃的な男性的性質の回避であると告げる。抵抗は続く。

ためらいの中で彼は精神分析家が非常に女性に対して精力的な男性に見えたと語る。私は兄と精神分析家を同一視し、私の優越を怒っていたこと、彼の劣等感が不能感にあることを明らかにした。さらに彼は兄から私へ去勢不安を転移していたのである。

しかしこれには触れず、善良で優越であるという感情によって不能感を克服しようとしていたこと、精神分析治療に対する抵抗はひそかな優越の感情に由来していることを指摘した。性格分析は成功する。

秩序正しい精神分析操作の原理:力動的経済的な要素を考慮した要点を突く少数の解釈投与・抵抗に対する性格分析的な働きかけの中で、現在の精神分析状況と幼児期の状況との連関を見出す。<最も根本的な自我の防衛>から操作し、無意識に及ぶ防衛の裂け目を組織的に拡大し、幼児期固着を、感情的な伴いが最大の時期に操作する。

性格分析はフロイト理論と一致し矛盾しない。Ex.抵抗に関する自我解釈・防衛解釈とエス解釈。性格分析は、他の精神分析方法に比べてはるかに患者の負担が重いので、たくさん苦しむ。ゆえに患者を選ぶ必要がある。

e.性格の鎧の解除

大部分の患者は自分の性格を客観的にながめる傾向を持っていないが、<自己愛的な防衛機制>とそれに結合している不安感情の解決が大切となる。

<症例-25歳の男>

話し方の冷たさ、皮肉さ。しばしば笑う。母の死、きびしかった母へのののしり。精神分析治療における患者の話し方には、泣いていてもののしっていても、自然な感情の発露がない。自分の過去の不幸な事柄に対して、いつも笑っていたという。数回の精神分析治療で、患者は精神分析家を怒らせようとし、さらに精神分析家の腕を打つ。これを表面的な挑戦として解釈した時、患者は笑い、一層閉鎖的になった。

その後の精神分析はただ常同的な笑いのみが残る。沈黙が続き、彼は抵抗という言葉を繰り返した。笑いが精神分析治療への防衛となっていることを繰り返し指摘する。・・・・「あなたは、精神分析治療に対して、お母さんに対する態度と同じ態度でふるまっています。」・・・「その笑いは私に対する秘められた恐怖を克服する試みなのです。」・・・・・「あらゆる連想、あらゆる解釈をその笑いで無効にしようとしていることは疑いないですね。」と告げた。

これ対して患者は笑わなかった。

その後よりフランクに皮肉を表明するが、彼の連想から、精神分析治療に対して去勢の危険を感じていることがわかってくる。患者はまず攻撃で後には笑いで去勢の危険を防衛していたのである。

「あなたは、その挑戦によって私を試そうとし、自分はどの程度まで進むことができるか、見定めようとしたのです。」・・・・・「私に幼児的な恐怖にねざした不信を向けていたのです。」・・・・・彼は笑いによって解釈を拒み続けるが、組織的な解釈投与をし続け、患者の防衛は崩れ始める。・・・・・・彼の笑いは嘲笑的なものではなく、母が自分を叱るのではないかという恐怖から母にへつらい、母をごまかす企てであったと考え、解釈し続けた。・・・・・

やがて母の死と自分が一人置き去りにされる恐怖が夢で表明される。いかなる笑いもなしに真剣な態度でそれは語られた。性格分析は突破され、幼児期との関連が確立したのである。

性格の鎧と自己愛的防衛の精神分析的な解決の成果は、第一に反動的に固定化され隠ぺいされた感情を、それが固定化され隠蔽されている場所から解放することであり、第二に、中心的な幼児期の葛藤であるエディプスコンプレックスと去勢不安に達する通路を作りだすことである。

多くの場合、幼児期体験に属する感情は性格防衛の中に吸収されている。それゆえ精神分析家は単純な連想内容の解釈によっては、幼児期体験の記憶を引き出すことはできるかもしれないが、これに<対応する感情>を活動させることはできない。性格中に吸収されている情動エネルギーをまず前もって解放しなければならない。最初から性格分析が行われると、神経症的平衡の攪乱動揺が起り、実際には感情の伴わぬ想起を不可能にする。

f.現在の材料を幼児期の材料へ精神分析的に還元するための最適な諸条件について

現在のふるまい方を幼児期の原型にいつ還元するかという基準は、少なくとも主要抵抗が解決されていること、意識化されようとしている観念が一定量の必要な最小限の感情(量)によって充填されていることにある。

患者を、行動化から想起へ、現在から幼児期へと導くべきであるというフロイトの原則はちょうど慢性炎症がひとまず急性炎症に変化されることによって治療されるよう、慢性的に硬化したものが最初に急性の感情転移状況の中で新しい生命を与えられなければならないという一層進んだ原則によって補足されねばならない。

g.豊富に材料を連想する症例における性格分析

性格が最初から想起の過程を妨害するような症例では、精神分析治療に導入する唯一の正当な方法として、性格分析の適応が考えられる。しかし性格が最初から豊富な記憶の連想を許すような症例に対してはどんな方法を用いたらよいのだろうか。

性格の鎧をもたない症例は存在しない。自己愛的な防衛が表層的で直ちに抵抗として現れるか、これが人格の深層にあるために最初から妨害的に働かないように見えるかであり、遅かれ早かれその強さと深さに変えて現れてくる。

後者の症例では、精神分析は順調に遂行されてきたはずなのに、究極的な成功が得られない。すべての解釈を試み、すべての幼児期葛藤を完全に意識化したように思われたが、精神分析治療は空虚で単調な過去の材料が繰り返される泥沼に落ち込んでしまう。

見逃されてきたのは<潜伏性抵抗>である。この潜伏性抵抗が患者の非常な熱心さと顕在性の抵抗が認められない事実とから成り立っていることがわかってきている。陰性的衝動が感情転移の中に現れないか、感情を伴うことなしにそれについての観念だけが連想されるのである。

典型的な症例は<自己愛的な感情閉鎖的な性格>と<受身的女性的性格>である。

<症例-受身的女性的性格・24歳の男>

ここで述べる経過は主として性格抵抗の精神分析に関係のある前半の7ヶ月についてだけであり、後半の7ヶ月は簡単に述べる。銀行従業員が不安状態を理由に治療を受けにきた。

彼は幼児期以来、激しい不安状態を頻度はまちまちだが経験してきた。思春期に「世界の破局」を心配したが、次第に遠のき「父方の梅毒と母方の自殺と精神病」という自分の遺伝素質への恐怖がとってかわった。

<心気症型の不安ヒステリーを伴ったヒステリー性格>が診断であり、友好的でおだやか・過度に丁寧なお辞儀等<定型的な受身女性的性格>であった。

父は威圧的に手淫や夫婦間以外の性的交渉について躾をしていた。母は心配性で患者はあまやかされてきたという。母に対して性的興奮を感じたことはあったようだと漏らす。彼のふるまいは友好的で、あまりに多くを連想しすぎており、潜伏性抵抗が成立していると感じられた。見せかけ上の信頼によって精神分析家を欺いていたのである。

父を喜ばせるように、精神分析家を喜ばせようとし、父を恐れていたように、精神分析家を恐れていたからであり、感情転移性抵抗の現れを待つべきであった。彼は依然として母についてしゃべり、秘められた不審を偽装し続けた。

彼は決定的な夢を報告した。この時、私が抵抗解釈を一歩前進させると、精神分析中にヒステリー行動を演じた。1.手足をばたつかせ、「俺はお前を殺したいんだ」と。2.激しく泣き、「どうぞ私を一人にしておいて」と。3.泣くことなしに、性的に暴行された少女のようにふるまった。(再深層・父への殺人衝動、中間層・父への恐怖、表層・受身女性的防衛)しかし性格抵抗と関係あるもの以外は何も解釈をしなかった。

やがて<感情転移性抵抗の精神分析>と隠された<父に対する陰性態度>の精神分析とが連合して開始された。その後<陰性-父感情転移>と<強力な優しい母-感情転移>が明らかとなる。

解釈操作の出発点として私は、いつもお金抵抗(去勢不安)を選んだ。深層解釈は控えている。夢の中で(私)父が強盗(去勢者)として現れる。これについて解釈を告げると、彼は自分が目上に対して向ける誇張的な親愛感を何か悪いことをしはしないかという恐怖の表現であると自覚した。

そして精神分析治療中もそれ以外もますます自由で率直で開けっ放しになった。彼は自分のこれまでのふるまいを恥ずかしがり、神経症的な性格が外的な異物としての症状に転化し、性格分析に取り組み始めた。

原光景と関連して自己のペニスについての恐怖が夢の中で前景化する。組織的な性格分析により幼児期の材料は自然に流出し、現在の抵抗と結びつく。その後の夢の残忍な性質から彼の手淫空想と習慣化した残忍な行為との関連づけを指摘した。彼の<性器的衝動>は加虐的衝動と混合していたのである。しかし害されはしないかという恐怖を、性器をめぐる恐怖に関係付けると、再び<去勢不安に対する受身的女性的同性愛的防衛>が発展した。

その後の夢の精神分析では、手淫空想の中で自分を一人の女だと想像していことを彼は想起した。更に女性性器に対する恐怖や自分のペニスに触れたり触れられたりすることへの恐怖を連想するようになる。これと関連して<母に対する口愛期的固着>についても話し始めた。そして<受身的同性愛的抵抗>も解決されていた。近親相姦愛の主題は以前には偽装であったが、今回はほとんど抵抗が無かった。

やがて精神分析治療は原光景の方向へと展開し始める。私はペニスに対する恐怖がそこから生まれた幼児期の光景を含んでいるという仮設を話してみた。その後原光景に関する精神分析は父母が性交中に自分が胎児であり、その際父に自分は去勢されたという空想に結びつく。残りの精神分析治療の抵抗から解放されていた。

(3)感想・疑問

a.印象

硬質な文体、解釈投与の論理的な順序の確立の徹底重視、軍事・戦闘用語の使用(鎧・敵陣突破等)は「冷厳なプロフェッショナリズム」を、また特に事例において組織的な性格分析を遂行し慎重に直接的内容解釈を控えて潜伏性抵抗の出現を待つ姿勢は最善の獲物を狙う「狩人」を、イメージさせる。

b.クライエントのモノ化

「抵抗」を精神分析治療上の障害物、克服すべき阻害物としてのみ取り扱う仕方には、どこかクライエントを物象として対象化する思考傾向が潜んでおり、若干の抵抗を感じる。日常生活においてもさまざま「抵抗」が存在する。ある立場からはそれは取り除くべき障害だが、別の立場からは当事者のサインとして受け取れる。前者だけに固守することなく、複数の視点をもつことが大切ではないのか。

c.ライヒの基盤

ライヒは神経症の基盤にオルガスム体験の不能によるリビドー鬱積を見ており、これは前期フロイト学説の継承ととれるが、自我・エス・死の願望(死の欲動?)などの後期フロイトの用語が論文中に見られもする。ライヒはフロイトのどこを継承し、どこを継承しないとしているのだろうか。

2.性格分析(1933)の解説

(1)ライヒの生い立ち

1897年にウイーンにてユダヤ人家庭の中に生まれる。家は裕福な農民であった。13歳の時には母親は自殺し、17歳の時には父親が死去(一説には母親が不倫をし、それを父親が責め立て、それによって母親は自殺をした。またそうした母親を自殺に追いやった罪悪感から父親は真冬に凍った池に入り続け、肺炎になって死ぬという自殺に近い死に方だったと言われている)。第一次世界大戦に出征し、復員後にウイーン大学医学部に入学。

1920年の23歳の時にはウイーン精神分析協会の一員になった。同時に、医学部卒後研修で精神医学と神経学を学ぶ。1922年にはウイーン精神分析診療所の助手をするようになった。1925年に「衝動的性格」を出版。1927年にオーストリア社会民主党に、1928年には共産党に入党した。そして、1928年にはウイーン精神分析診療所の副所長になり、キャンディテートの指導に携わった。

1930年にベルリンに移り、ラドから訓練分析を受けたが、途中で抑うつ状態になったために中断となった。1933年に「性格分析」を国際精神分析協会から出版予定だったが、ナチスドイツの圧力により、断念。ライヒはそのため自費出版をした。同年に共産党はライヒを除名。1934年には国際精神分析協会もライヒを除名。ライヒはオスロに亡命した。

1939年にはオスロでのライヒの非難が高まり、アメリカに再度亡命し、1940年にはニューヨーク新社会調査学院の助教授に就任。1941年にオルゴンボックスを制作。その後、1942年にメーン州にオルゴン研究所を設立。1954年にFDA(米国食糧医薬品局)にオルゴンボックスの販売を禁止されたが、それをライヒは破り、1955年に裁判となった。

1956年にオルゴンボックスをFDAに廃棄され、1957年には法廷侮辱罪でコネチカット州ダンベリイ連邦刑務所に服役となった。そこでハーバート博士の精神鑑定によって精神分裂病(統合失調症)と診断。同年に心臓発作のため60歳で死去した。

(2)衝動的性格

症状神経症と精神病の間にあり、さまざまな症状を生じさせながら精神病的な転移反応を起こす患者の一群のことを指している。衝動的な性格の持ち主は、衝動的な快感自我と超自我の圧力で自我が歪曲されている。

また、欲求を即座に現実化しようとする力動や、形成不全の超自我を持っており、同一化が障害されている。こうした性格についての理論は、現代の境界パーソナリティ構造に直結している。

(3)性格の鎧

a.性格の鎧とその精神分析

性格とは個人が環境に適応するために幼少期の頃に作り上げたものである。しかし、その過程で性欲動が過度に抑圧され、過剰適応となった結果、生き生きとした自然な情緒や欲求をも閉じ込めてしまい、まさに鎧を着るかのごとくになってしまうことがある。また、この鎧に裂け目が生じると収拾がつかない感情的な混乱に陥ってしまうため、ますます強固な鎧にしてしまう。

また、精神分析状況においてはこの性格の鎧が防衛や抵抗として機能し、精神分析の進展を妨げる。こうした防衛や抵抗は患者の語る連想の中に表れることはなく、それよりも話し方、表情、態度、ふるまいといった非言語的に表出される。ちなみに、こうした性格の鎧の概念は、後のクライン派のピックの第二の皮膚、タスティンの自閉症の防壁に繋がっている。

このため、精神分析において連想内容の分析に進む前に、こうした性格抵抗、性格防衛を取り扱い、内に秘められた葛藤や抑圧された欲求を解放することをしなければならない。それによって、ようやく幼児的な転移が展開し、通常の精神分析に進むことができる。

こうした精神分析技法は特にその後の自我心理学に大きな影響を与えた。特に内容分析をする前に防衛分析や抵抗分析をおこなう、いわゆる表層から深層へ、という精神分析手順はライヒの手によることが大きいとされている。

さらに精神分析状況に展開する抵抗を扱うということは必然的に陰性転移のhere and nowの解釈を行うこととなる。こうした技法は様々な差異はあるが、ランクやフェレンツィなどと軌を一にしていると言えるだろう。

b.ビックの第二の皮膚

エスター・ビックの写真

図2 エスター・ビックの写真

ポーランド生まれのクライン派児童分析家。乳幼児観察の訓練を作ったことで有名。乳児のパーソナリティは未分化であるが、母親の包容によって乳児の皮膚がそれを吸収し、包容機能が形成される。それによって内的世界が作り上げられ、投影同一化といった心的機能が活動できるようになる。

しかし、こうした形成がうまく行かないとき第二の皮膚を乳児は形成する。これには包容機能はなく、ただ外部の侵入を防衛することのみに終始してしまう。そして投影同一化は機能せず、附着同一化が主となってしまう。

c.タスティンの自閉症の防壁

フランセス・タスティンの写真

図3 フランセス・タスティンの写真

イングランド生まれの児童心理療法家。自閉症の病理を早すぎる母親からの分離における外傷とした。そして、自体感覚の過度の発達によってそうした外傷に対処していることを自閉症の本態である。これによって自と他の境界や共有の障害が生じてしまう。また、こうした防壁には2種類あり、一つをカプセル型、もう一つを混乱錯綜型(アメーバ型)とした。

前者は自体感覚に包まれることで母親との分離を否認し、硬くて機械的なものにこだわりを示す。そして身体的分離を認識するとブラックホールに堕ちるかのように感じ、パニックになる。後者は自身が母親の胎内にいると錯覚することで分離を否認する。この型は主体性に乏しく、関わられることに拒否はないが、疎通性を感じることができず、視線も合わない。

(4)ライヒと共産主義

  • 「若者の性的闘争」(1932)
  • 「ファシズムの大衆心理学」(1933)
  • 「弁証法的唯物論と精神分析」(1934)
  • 「性道徳の破壊」(1935)
  • 「文化闘争における性欲」(1936)

精神分析と共産主義に関わる論文や書籍は上記の通り。ライヒは性格の鎧を精神分析技法の中で完結させるだけではなく、社会革命、共産革命といった社会運動の中で達成させようとした。

性格の鎧によって抑圧され、鬱積したリビドーは資本主義の影響が色濃くあり、この抑圧が強ければ強いほど資本主義の中で成功をおさめることができるとされ、ますます性格の鎧を強固にしていく、と断じた。ライヒは性器欲動のオーガズム体験の解放を主張し、円満なリビドーの満足が心身の健康に直結するとした。そのために精神分析だけではなく、社会革命が必要であり、そうした社会を実現しなければならないとし、運動家へと転じていった。

(5)ライヒのオルゴン療法

抑圧され、鬱積したリビドーの解放を達成する目的ということでは共産革命と同じであるが、その後のライヒはこの目的のためにオルゴンボックスを開発した。宇宙にはオルゴンエネルギーという根源的な力があり、それをオルゴンボックスに集め、さらにそこに患者を入れることによって、そのオルゴンエネルギーが患者の不感症や性的不能を治療する、というものである。

しかし、当然であるが、こうしたオルゴンエネルギーについては科学的には実証されておらず、治療効果も不明であり、オカルト的な扱いを受けていくようになっていった。そして、薬事法に抵触し、オルゴンボックスをFDAに破棄されるという事態に至った。この時期には既に精神分裂病(統合失調症)を発症していたと考えられ、妄想の産物として現在では主に理解されている。

ただ、一部のグループに未だにこうしたオルゴンエネルギーがあると信じている人もいる。生命療法という形で、現在もスピリチュアルの一部として残っており、ネット通販でオルゴンボックスが現在でも購入可能である。検索エンジンで「オルゴンボックス 購入」と検索すると購入サイトが出てくる。安いもので2~3万円、たかいもので20万円ほどである。

(6)ライヒの思想

ライヒの技法は精神分析、共産革命、オルゴン療法と変遷していった。しかし、その根底にはフロイトの鬱積不安説があり、その解放を目指しているところは変わりがない。ライヒの治癒像というのは、人が性生活を楽しめ、享受できることとしているようで、そういう意味で、フロイトが初期に示したように性欲動を重視している。

その後のフロイトは自我心理学に傾いていき、中でも「エスあるところに自我あらしめよ」という格言に示される通り、自我の機能の強化に重きが置かれていった。対してライヒはフロイトのいう自我は抑圧の機能によってますます性生活が楽しめなくなるものであるとし、エスの解放を主軸においた。「自我あるところにエスあらしめよ」という風に言い換えることができるだろう。

フロイトは精神分析家の態度として中立性を重視し、患者には禁欲原則を課した。こうしたこともライヒの考える治癒像からすると受け入れられないことであった。ライヒは性欲の満足を目指しており、その過程では中立性ではなく、いわゆる精神分析家の能動性を重視していった。こうした態度はフェレンツィとも似通っていると言えるだろう。

3.おわりに

このような精神分析についてもっと学びたいという方は以下をご覧ください。

4.文献


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